学校はどうよ!?
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第2回 授業について     高橋浩平
 
学校はどうよ!? 
 −「障害」のある子の「教育」について考える- 

 今回のお題は「授業について」(その1) 

先生が主人公のテレビドラマがいろいろありましたね。古くは「飛び出せ青春!」とか 

「〇〇青春!」みたいないわゆる「青春モノ」(竜雷太とか、村野武範とか、中村正俊 

とか…30代後半から40代か)、水谷豊の「熱中時代」武田鉄矢の御存じ「金八先生 

」、新しいところではトシちゃんのテレ朝でやっていたやつ(タイトル忘れた)。そんなド 

ラマを見て、「よしオレも先生に」と教員を志すというパターンもけっこうあると聞いて 

います。でもだいたい生徒たちが何か問題起こしたり、悩みがあったり、それを先生 

がわが身を犠牲にして解決するという「先生、ありがとう!」みたいな話が一般的で、 

特に「青春モノ」はその媒介でスポーツがあって、「不良」が、先生にたたかれて目が 

覚めていっしょに部活はじめて‥・みたいな。               なんでそんな 

話から始めたかと言うと、授業のために教材準備して、一生懸命授業やって、みたい 

な話ってほとんどないでしょ。だいたい教科書持って黒板書いて、みんなが机に座っ 

て聞いていれば授業いっちょう出来上がり、という感じ。「一生懸命授業をやりたくて」 

「授業をしっかりやろうと思って」先生になる人っていないんじゃないか、と思います。 

某大学の教育学部でとったアンケートで「どんな先生になりたいか」ときかれて、「子 

どもによりそう」「いじめのないクラスをつくる」「部活をがんばる」といういわゆる学習 

以外のところがほとんどで「授業」について書かれたものは3%に満たなかったという 

話もあります。また世間が期待する教師像っていうのも、「親身になってくれる」とか 

「正義感がある」とか「子どもにやさしい」とか「子どもが何でも相談できる」とか、そう 

いうことで成り立っているような気がします。 

 逆に「授業」ということでよく出てくるのは塾や予備校でしょう。「〇〇先生の完全英 

文法」とか。この授業を受けると合格できる、みたいな授業そのものの評価が予備校 

にはありますね。そこに要求される先生の資質は人格や性格や姿、形はどうでもよく 

「いい授業ができる」ということだけです。もちろん、その「いい」という価値基準は人 

気が集まる、合格者を多く出している、よく受かる、といういわゆる「受験戦争」におけ 

るわかりやすいモノですが。 

 授業を大切にしている人もいますが、ここであえて言い切ってしまおう。学校の先生 

って「授業を軽視している」よなあぁぁぁ。通常学級でいうと、赤本(指導書)が配ら 

れ、それを読めば授業ができることになっています。指導案を書いたり、内容を検討 

したりするのは年間で1、2度、というのが平均的教師像ではないでしょうか。ドラマで 

もよくありますよね。一人の生徒が「先生のばか!」とかいって教室を出ていくと、「自 

習してろ!」とかいって後をおいかけちゃうとか。オイオイそんなに自習にしていいの 

かよ、みたいな。もっとも、一概に教師だけを責める訳にもいかないでしょう。行事や 

生活指導やなんやらかんやら…と授業以外のことが多すぎる訳です(予備校は純粋 

に「授業」だけやっていればいいんですからね)。さらに最近は「お勉強は塾で、学校 

は息抜きの場」という子どもも大勢いるように思います。授業というのは儀式みたい 

なもので、そつなく過ごすやつや、どうでもいいやつや、ただそこにいるだけ、っていう 

やつから、それで先生はとりあえず教科書使って「授業」して、「子どもたちはよくわか 

っていないのよね〜」と言っていたりする…そんな感じじゃないでしょうか。 しかし、 

学校における時間の中でめっぽう多いのは、給食でもクラブでも行事でもなくこの授 

業なのです。いわゆる「お勉強」。ここをきちんとしないでどうするんでしょ一か。 

 障害児学級には通常学級のように赤本(指導書)はないですから、当然授業の中 

身を考えなくてはいけない。つまり一生懸命やればやるほど、授業のためにやらなく 

てはいけないことがたくさん出てくるのです。でも安易に昨年やっていた授業をそのま 

まやったりしているのではないですか。行事の事前学習とか、作業の学習とか、調理 

の学習でなんていうのは、とにかく、その内容でやっていけるからOK、みたいなイー 

ジーさをいつも感じます。 

 私は、「学校は?」といった時にまず「授業」を大切にしたいと思っています。やはり 

「お勉強」が大事(その勉強は知識詰め込みみたいなものではなく、子どもの成長・ 

発達のため、認識や考える力を育てるものでなくてはいけませんが)。そうした時に、 

障害のある子たちにとっていい「授業」っていうのはどういうことなんだろう、と思いま 

す。今の通常学級の「授業」は障害のある子にとっては大変なことが多いですが、障 

害のある子だけでなく、多くの「落ちこぼれ」を作っているというのが現状でしょう。「い 

っしょにいるだけでいい」のなら授業なんてどうでもいいんでしょうか。塾で教わってい 

る子どもが授業をリードして、わからない子はどんどんわからないまま、日々が過ぎ 

る。でもわからなくなっても、友だちいるし、給食あるし、いいんじゃない、ということな 

んでしょうか。 

 障害児の教育も通常の教育も「授業」を大事にする、子どもたちの成長・発達を促 

すための「授業」を行っていく、という点では同じはずです。私は、ささやかではありま 

すが、障害児教育の分野から、通常の教育に向けて「授業作り」をきちんと提起した 

い、子どもを中心にすえた授業を展開したいと思って今も実践しています。 

 ある人から「魚屋はお客さんが喜んでくれる魚を仕入れ、それを売るのが仕事、教 

師の仕事は子どもにいい授業をするのが仕事のはずなのに、本来の仕事をしなくて 

も教師をやっている、教師も「魚屋さんに恥ずかしくない仕事をしよう」と指摘されたこ 

とがあります。障害児教育の分野でも教育制度や社会福祉制度への問題意識から 

運動を熱心にされている先生がいます。組合活動に熱心とか、放課後のスポーツに 

燃えているとか、そのことを否定はしませんが、教師の本来やるべき仕事は何なの 

か、ということを見失わないようにしたいと自戒も込めていつも思っています。 

 さて、それじゃあ、実際にはどう「授業」をイメージするのか、「授業」とはそもそも何 

か。何がどうしてどうなっているのか、というあたりについては、また次回 
(この項続く) 
 
  

          ライター●高橋浩平 
      浩平君に連載の話し持ちかけたのは、編集者である俺−そう佐藤である      ことは明記しておいた上で、だ。だんだん、この連載に文句言いたい人、      「気にいらねぇ」という人、増えてきたんではないか。アカデミックな機関紙      ならともかく虹の会だからな。彼を倒すご意見大募集!(以上、佐藤記)