@施設訪問記
暑い日が続いていますね。お元気ですか。
相談事業では、今年度から、自立生活プログラムの受講生を増やすことと、
虹の会が地域で暮らそうとする障害者をサポートする事業をやっていることを広めるために埼玉県内の身体障害者療護施設などに宣伝に行くことになりました。
早速先月にいってきました!。
私たち当事者にとっての[施設]のイメージは必ずしも良くないんですね。
読者のみなさんは、暗いとか、そういう感覚なんでしょうか。個人的な期待としては、ちょっぴり自由が広がってればいいな…と思っていました。その報告です。
{概要}
施設訪問 第1回目
「埼玉療護園に行って来ました」
日時 6月16日(火)
場所 埼玉療護園(寄居町)
参加者 村山 松沢 見形 プラス介助者3名
10時半ころ南与野駅を出発2時間くらいで寄居駅に着きました。療護園は駅から車で5、6分、歩いて20分くらいの静かなところでした。2時間ばかりの間、私たちは、園内の各部屋を回り、美和さんの知り合いの人を紹介してもらいながら、会話の端々から入所してる人のいまの思いを感じてきました。
虹の会の自立プロを受けてみようか、
相談にのってもらおうかなという人もいました。数名の人が「自立して地域で暮らしていきたい、施設を出たい」という希望を持っていることがわかりました。
思っていたよりその人たちはいろいろと東京の自立生活センターから情報を入手していたり、ある程度現実的に自分の生活を考えていたので少しびっくりしました。
浦和市で暮らすとどのくらい介助が得られるのか、介助料はどうするかなど、質問されました。私たちが進めようとするCILの重要性を再度認識しました。
年齢のかなり高い人から20代の人が40名くらい入っているようです。職員は女性が中心で2名ほど男性職員がいました。
*男性職員が女性入所者の介助を始めているということです。
園の雰囲気は、何となくどんよりした感じで、重苦しく、気持ちが滅入ってしまい、純ちゃんはいつもの元気がなくなってしまったそうです。施設の中だけの時間がゆっくり流れていました。その生活ペースにはまっていきそうでした。
でも「妙に、懐かしいなあ」という気持ちもありましたけど。なかなか自分らしさとかも表現しにくいし、自己主張も出し難そうな感じがしました。 作業の場所も見せてもらいました。秋の文化祭に向けて、ビーズ細工のブレスレットを作られていました。
それと、個人的には*全館放送されていたニュースが気になりました。聞いていても聞いてなくてもいつも同じ時間に流されるそうです。
それから気になったことは、部屋の何人かの人が*透明の囲いに入れられてたことです。
何とも言えない悲しさのような、そんな気持ちがしました。
帰り道、まるでどんよりした空気を断ち切るように、車椅子を走らせ駅に向かうとき、電車に間に合うか間に合わないかの瀬戸際で「これが現実だ−っ」と叫んでいました。
そして「やっぱり施設は長くいられるところじゃないな」と感じました。
[私たちの課題]
施設を出ようとする人が今後訪問をしていく中でかなりの人が現れてくることも予想されます。
でもそこで実際今の虹の会(相談)はニーズに応えていけるのか不安も感じました。
できる限り利用したいと思った人々の希望に答えていくために、介助派遣システムと連動させ、介助面や車での送迎も考えていきたいです。
今回の目的でもある虹の会とその人たちとのパイプが作れたかなと思いました。
「施設にいる人たちを私たちの力でより多く、引っ張り出せたらいいのに…」そう感じる今です。
[文責:見形]〜 「寄居で見つけたおいしいお店」
施設訪問番外編〜「寄居で見つけたおいしいお店」
私は小中学校時代を今回訪問した埼玉療護園のとなりの埼玉療育園で過ごしました。
施設の中でですが9年間寄居町で生活したことになります。
今回久し振りに町を訪れ(正確には個人的にも最近になって行ったので久し振りという言葉はそぐわないかもしれませんが)おいしいお店を発見しましたのでそのお店の人に無断で紹介します。
●上総屋(かずさや)−おそばや−
「このそばの実を割ってみてくれる?中に白い粉が入っていることを確認してほしいの」− このお店でそばを注文してしばらくすると、おかみさんがそばの実が入った小さなお皿を持ってきます。そして、いろいろと説明を始めます。
「ほらね、まっしろでしょう!うちのそばは白いそばなんだけどその訳がわかるかしら。まっしろっていうことは何も混ざっていないということなのね。それをわかってもらいたくてこうやってそばを注文するお客さんにはそばの実を見せることにしているのよ」 つまり黒いおそばにはそばの実の殻が混ざってしまっている、というのがかずさやのおかみさんの言い分です。 確かに出てきたそばは白かった。でも、すごくおいしかったね(うん)。 一部のうどん派の人をのぞいて私たちが食べたおそばは「三食そば」。
白いおそばにゆずけしのみがそれぞれまざりほのかな色彩が魅力のおそばでした。ゆずの混ざったおそばはそんなにきつすぎもなくほのかにゆずの香りが口の中に広がります。
けしの実が混ざったものは、ちょっぴりくせがあったかな(うん)。しめて800円。寄居を訪ねた際は、ぜひお昼に勧めたい一品です。
★場所/寄居駅南口(たぶん)徒歩30秒
※ほとんど駅前です。南口になかった場合は、北口に回りましょう(たぶん南口だよ)
※ちなみにその2軒となりの「原島食堂」もふつうの食堂ですが、とてもおいしいです。
いや−、施設にいるときはこんな店があるなんて夢にも思いませんでした。
やっぱり外にでなきゃだめですね。
[文責:MIWA]
Aヘルパーの上限撤廃と
地域の「施設化」を巡って
「ヘルパー派遣量の上限が定められているということは、介助を要する障害者にとって生存権の侵害と同じことだ」、との見解は機関紙4・5月号で既に述べた通りである。
ヘルパー事業は、介助保障施策の要(かなめ)であり、地域で一市民として自立した生活を送ろうとする要介助者にとってなくてはならないものだ。 逆に、ヘルパー事業が不完全である 日常生活上のほとんどに介助を必要としている障害者にとって、これは不足どころか、「生活できない」レベルの制度である。
介助さえあれば、自らの決定で、自ら一市民としての義務を果たしながら生きていくことは可能である。
だが、そんな障害者の多くが、介助制度の不十分さから、自ら望まないもかかわらず、前述の施設の中でなどの生活を強いられている。
(ここでは施設是非論をする気はない。ただ、望まないのに「仕方なく施設に居る」人が多数いることは厳然たる事実として押さえたい。)
なんとか生活している人たちにしても、何万枚もビラを配ってボランティアを募り、そのボランティアが一度これないとなれば、何十件も電話をかけて代わりの人を捜すという状況の中で何とか生活を成り立たせてきた歴史がある。
私たち虹の会もそうした歴史を踏んできた。
60年代を中心として行われてきたということは、「生活ができない=死」を意味する。
現状の浦和市の制度は、県内他市に比べてよくなっていることは事実。
しかし、だからといって安心して暮らせるような状況には程遠い。
そもそもヘルパーの派遣時間の上限が5時間程度なのである。
障害者施策− 大型コロニー建設を軸とする「大型収容・合理化」という流れの中で、障害者の人権や選択権は奪われてきた。
それらの施策は、「たくさんあるうちの選択肢の一つ」ではなかったのである。
そうした状況は、人権上の観点からも問題とされ、現在は見直される方向に動いている「はず」であった− 。
そうした大量収容・合理化に、生命を賭けて挑戦した人たちがいた。
それが、施設を飛び出し、一人で暮らし始めた介助を要する障害者たちである。
会の初代会長である福嶋あき江さん(故人)もそんな一人だった。
介助制度のない中で、無料で介助を請け負ってくれるボランティを募るために何万枚とビラを撒いた。何千回と電話かけをした。
そんなことは、もうみなさんも十分ご承知のことだろう。それこそが虹の会の歩みでもあった。
現会長は、ボラの都合で朝の4時まで眠れなかった(ベットに移動できない)こともあったという。
そしてボランティアも、ヘルパーが来る時間以外の必要な時間すべてをカバーするために、いろんな努力もしてくれた。
行政から来る「資格を持ったヘルパー」なんぞよりも、ずっとずっと障害者の地域での生活を支え続けてきてくれている「資格のない介助者」がたくさんいるのだ。
こうした、私たち障害者自身の頑張りに答えてくれる多くの協力者とともに、なんとか生活は続いていった。
それに呼応する形で、行政も動いてきた。
自ら推薦する人(これまで来ていた介助ボラ)をヘルパーとして派遣する派遣形態− ヘルパーの推薦登録派遣も実現した。(浦和でも昨年度から実施)
一部他府県ではヘルパーや介護人派遣事業などの制度を組み合わせて、必要な介助派遣を量的にも受けることができるようにもなってきているという。
(浦和ではまだまだである)
また、虹の会のような、介助派遣や介助相談などを行う当事者団体に対する補助として「障害者生活支援事業」(先月号参照)なども始まった。実際にCILなどの当事者団体が取り始めている。
ようやく、「大量収容・合理化」に生命を賭けて挑戦してきたことが、芽を出し始めたという感じであった。
自分の生活は自分で決める。
自分の介助者は自分が選ぶ。
人から決められるのではなく、自分で選ぶ。
障害者だからといって、市民としての生活を奪われない。
そんな当たり前のことが、やっと実現していくのかな、と思っていた。
(もちろん、先に書いたように、浦和市などではまだまだ、実現には程遠いのではあるが− 。)
しかし、それが今、逆行しようとしている。
「介護保険」がらみの問題がそれである。
会では、現在緊急で学習態勢に入いろうとしている段階で、詳しくはまだ語れない部分もある。
ただ、厚生省など国の考えるこれらの「介助体制」の基本にあるものは、どうも、「当事者のための介護保障では決してない」ということのようだ。 このことは何を意味するのか。
色んなところから会に集まってくる介護保険関係の資料の中に、決まって「1週間の介護状況モデル」なるものが含まれている。
月曜から日曜まで、ホームヘルプや訪問看護や巡回ヘルプ、そしてなんとデイサービス・デイケアなどもその中に組み込まれて、一種の「スケジュール表」が出来上がっているのだ。
「これでカバーできない部分は家族介護に依存」、といった文字も散見され、「これに沿った生活をしなければ介助が受けられない」ということのようだ。
それってどういうことだ?
まるで、「選択肢が存在しない生活」そのものじゃないか。
なぜデイケアに通うことを強制されなければならないのか。起床時間はなぜ決められなければならないのか。
その時間に起きられなかったら、「起きるな」ということか。デイケアを休んだら家でトイレも我慢してじっとしていろというのか?。
これのどこに本人の選択権があるのか。
これは少なくとも介助を要する人たちのための施策じゃない。
介助をする側の理屈だ。まさに「合理化」そのものである。
あの時代の「合理化」そのものだ。 建物は確かにない。けれど、これは「施設」だ。
地域を「施設化」しようとしている。
もちろん、今のところ、高齢者の問題であって、障害者にこれがどう適応されることになるかはわからないという。(一部適応されるということもあるらしい− 勉強不足なので、早急に勉強します。)
だが、当事者のためじゃない制度が正義かのように進んでいる現状は薄ら寒い。
虹の会や当事者は、これまで、「あたりまえに市民として生きる」というただそれだけのことをするためだけに身を粉にして活動をしてきた。
(だいたい、障害者に生まれたからといって、要介助者に生まれたからといってそんな辛い活動をしなければ、地域で生きられないということ自体がおかしいのだが。)
私たちが目ざすのは、自由に選択できる人生だ。
必要な介助を、他人や「専門家」にこま切れにされ、その提供を受けるためにじっと家で待っている生き方ではない。
「地域の施設化」を私たちはどんなことがあっても許さない。
(文責:役員会)
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